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東京高等裁判所 昭和55年(行ケ)341号 判決

原告

ベツトゲル・ゲー・エム・ベー・ハー・フアルマツオイテイツシエ・ウント・コスメテイツシエ・プレパラーテ

被告

特許庁長官

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  この判決に対する上告期間につき附加期間を90日と定める。

事実

第1当事者の求めた裁判

1  原告

「特許庁が昭和53年審判第494号事件について昭和55年6月30日にした審決を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

2  被告

主文第1、2項同旨の判決

第2請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和48年8月22日特許庁に対し、名称を「標準化及び安定化された水溶性胎盤エキスの製法」とする発明(以下「本願発明」という。)について1973年8月1日ドイツ連邦共和国においてした特許出願に基づく優先権を主張して特許出願をしたが、拒絶査定を受けたので昭和53年1月17日審判を請求した。特許庁はこれを同年審判第494号事件として審理したが、昭和55年6月30日「本件審判の請求は成り立たない。」との審決(出訴期間として3か月を附加)をし、その謄本は同年7月16日原告に送達された。

2  本願発明の特許請求の範囲

粉砕した胎盤を有機溶剤で処理し、引続き遠心分離及び濾過することによつて得られた胎盤エキスを標準化するために、先ず十分な量のエーテルを添加することによつてホルモン及び残余のリポイド物質を抽出し、主要量のエーテルを分離した後、抽出物の残留水相から残存するエーテルを7以上のpH価及びクロレトンの存在において空気を導入することによって除去し、その後組織中に天然に出現する酸で酸性にすることによつて脱蛋白し、かつpH価6.5~7.4に調整し、これに引続き標準化されたエキスを安定化するために、該エキスに種類及び量がエキスの使用目的に適合せる常用の緩衝物質及び貯蔵剤の他に、胎盤中に検出しうる低分子成分であるアミノ酸及び同誘導体、カルボン酸並びにヒドロキシー及びケト誘導体、プリン―及びピリミジン誘導体及び尿素、水溶性ビタミン、及び硫黄化合物を含有し、最後に組織がその蛋白体及びそのヌクレイン酸を構成するための構成成分として使用することのできる活性物質であるオロツト酸、オリゴペプチド、デスオキシペントース、プリン/ピリミジン塩基及びプリン/ピリミジン誘導体等を添加せる溶液を、1:1~1:5の量比で加えることを特徴とする標準化及び安定化された水溶性胎盤エキスの製法。

3  審決の理由の要点

1 本願発明は、標準化及び安定化された水溶性胎盤エキスの製法に関するものである。

2 これに対し、原査定の拒絶理由の要旨は次のとおりである。

明細書の記載に係る次の点が不備のため、この出願は特許法36条4項、5項の要件を満たしていない。

(1)  明細書全体を通して各試薬(有機溶剤、貯蔵材)及び操作条件(pH、温度)についての説明が不十分である。被処理物が生理活性をもつものであること及び人体に適用するものであることから、試薬及び操作条件について自ら制約があるものと認められる。

(2)  特許請求の範囲における「……複数個の低分子成分……」の内容及びその添加量等が明確でない。

(3)  この発明の方法にしたがつて製造した具体的実施例及びその物性、生理活性等が示されていない。

3 請求人は、昭和52年6月15日付及び同53年1月17日付手続補正書を提出して明細書を補正すると共に、請求書において右補正により拒絶理由は解消した旨主張する。

4  そこで、補正された明細書を検討するに、次の(1)ないし(3)の点で右明細書は依然不明である。

(1)  「貯蔵剤」について

特許請求の範囲に記載の「貯蔵剤」について、発明の詳細な説明には好ましいものとして、「クロレトン」及び「一部ニパギン―及び(又は)エチルアルコールないしはベンジルアルコールと混合されるクロレトン」が記載されているのみで、貯蔵剤がいかなる性質を有するものであり、そしていかなる範囲の物質を意味する用語として用いているのか何ら説明されていない。従つて、特許請求の範囲に記載の貯蔵剤はその意味が不明確である。

(2)  「胎盤中に検出しうる……ピリミジン誘導体等」の記載について

拒絶理由で指摘した点は、昭和53年1月17日付手続補正書によつて補正されたが、補正された内容、すなわち「胎盤中に検出しうる……ピリミジン誘導体等」(右手続補正書別紙1頁14行ないし2頁5行)は依然として不明である。すなわち、(a)これに示された物質の中には意味不明のもの――「プリン/ピリミジン塩基」、「プリン/ピリミジン誘導体」、(b)意味する範囲が著しく広く不明確なもの――例えば「……誘導体」、「硫黄化合物」、(c)互に重複する関係にあるもの(例えば「アミノ酸」と「カルボン酸」)があり、しかも(d)各物質は「及び」又は「並びに」という接続詞で結ばれており、右各物質の組合せ関係が不明である。従つて前記摘示部分の記載は意味するところが不明瞭である。

(3)  実施例等について

発明の詳細な説明における例1及び例2には、一応特許請求の範囲に記載の方法に沿つたものが示されているが、そこに示されているものは、操作条件、使用材料及びその使用量に一定の幅が存在する任意的なものであつて、本願発明の構成が実際上どのように具体化されるかを示す実施例とはいえない。また昭和52年6月15日付手続補正書3頁以下に示されているPFEⅠについては単に「本願の例1による」との記載があるのみで、特定の操作条件、使用材料及びその使用量を明示したものではないから、これをもつて実施例が示されているということにはならない。

本願発明の標準化及び安定化された水溶性胎盤エキスの製法は、本願出願時において新規なものと認められるから、発明の詳細な説明に当業者が容易に実施することができる程度に本願発明の製法について実施例として実際に具体化した例を少なくとも1つは記載する必要がある。

5  以上のとおりであるから、前記拒絶理由において指摘した不備は依然として解消していない。従つて本願は前記拒絶理由によつて拒絶すべきものである。

4  審決の取消事由

本願明細書中審決の理由の要点4の(1)ないし(3)に摘記した点に不備があるとした審決の認定判断は、以下主張のとおりいずれも誤つているから、審決は違法として取消されるべきである。

1 「貯蔵剤」について

本願発明における「貯蔵剤」は、「防腐剤」又は「保存剤」と同義である。このことは、本願のドイツ連邦共和国においてした特許出願の明細書に記載の「貯蔵剤」に該当する語Konservierungs-mittelやこれに相当する英語Preservativeがわが国において貯蔵剤、防腐剤、保存剤などと訳されていることからも明らかである(甲第7ないし第10号証)。

本願発明で用いられる貯蔵剤は、特許請求の範囲において「常用の……貯蔵剤」と限定されており、およそ貯蔵剤であればすべて含まれるような無限定かつ不明確なものではない。また本願発明は、明細書の発明の詳細な説明の欄冒頭に明記のとおり、「傷及び濃腫、例えば潰瘍の治療用にも、また化粧品の混成分としても使用される」ものであり、薬剤学上からいえば、軟膏剤に属するものであることは、当業者にとつて自明であるとろ、軟膏剤としての貯蔵剤(防腐剤、保存剤)の種類は限られたものでありかつポピユラーなものばかりである。従つて、「貯蔵剤」について明細書に明確な定義、説明がないとしてもその範囲、性質は自ら明らかであるから、これを不明確であるとすることは到底できない。

2 「胎盤中に検出しうる……ピリミジン誘導体等」の記載について

(1)  (a)の点(「プリン/ピリミジン塩基」、「プリン/ピリミジン誘導体」)について

(1) 化学大辞典(共立出版株式会社発行)によると、ピリミジン塩基とは、ピリミジン及びその誘導体をいう(7巻569頁)として塩基と誘導体とを区別しておらず、ピリミジン塩基の中には「チミン」ほか4種のものがあるところ、同辞典にはチミンはピリミジン誘導体の一種である旨の記載があり(5巻906頁)、またプリン塩基とはプリン誘導体のうち生体に関係の深いものをいうと記載されている(8巻22頁)。そうすると、本願発明の特許請求の範囲に記載の「プリン/ピリミジン塩基」、「プリン/ピリミジン誘導体」とは、それが胎盤中に検出し得るものである限り同じ意味と範囲のものである。従つて、特許請求の範囲に前記の塩基と誘導体とを区別して記載したことは、表現上ぎこちなさがあるとはいえ、両者は実質的に同一のものであることは容易に理解できるものである。

(2) 次に、ピリミジン誘導体(塩基)については、シトシンが明細書の発明の詳細な説明の欄中例1に、またチミンが同例2にそれぞれ記載されている。そして前述のとおりプリン塩基とプリン誘導体とは本願発明に関する限り実質的に同一であり、また胎盤中に検出し得るプリン塩基又は生体中のプリン塩基としてはアデニンとグアニンの2種類があるだけであることは公知である(甲第12号証)から、これを特に明細書に記載する必要はないものである。

(3) 次に、「プリン/ピリミジン塩基(誘導体)」の記載における記号「/」についてみるに、特許請求の範囲における右記号の意味が、被告が主張するように「及び」か「又は」かが不明であるというのであれば、発明の詳細な説明中の記載や公知資料を参照してその意味を定めるべきであり、これが常用の手法である。「基礎生化学」(甲第12号証)39頁には、プリン塩基とピリミジン塩基とは均等物として扱われており、いずれもヌクレオチドの構成分子として記載されている点及び右(1)、(2)に述べたことからして、本願明細書における記号「/」は、「又は」と同義であることは明瞭に理解することができる。

(2)  (b)の点(意味する範囲が著しく広く不明確)について

(1) 審決が、意味する範囲が著しく広く不明確であると指摘する本願発明の特許請求の範囲の該当個所記載の化合物のうち、アミノ酸及び同誘導体、カルボン酸並びにヒドロキシ誘導体及びケト誘導体、プリン誘導体及びピリミジン誘導体、尿素、水溶性ビタミン及び硫黄化合物は、すべて「胎盤中に検出しうる」ものであることを要し、胎盤中に検出できないものを含まないのであるから、その範囲は自ら明確に限定されているのであり、またオロツト酸、オリゴペプチド、デスオキシペントース、プリン塩基及びピリミジン塩基及びプリン誘導体及びピリミジン誘導体は「組織がその蛋白体及びそのヌクレイン酸を構成するための構成分として使用することのできる活性物質」に限られるのであるから、その範囲はこれまた明瞭である。

(2) 「胎盤中に検出し得る低分子成分であるアミノ酸及び同誘導体」としては、甲第25号証(「整理学と物理学」129~135頁の第1表及び第3表)に示されているものがそのすべてであり、この2つの表に示されたもの以外にはない。そして右2つの表に示されているアミノ酸及び同誘導体はヒスチジンを除き全部本願明細書の例1及び例2に挙示されている。なお、ヒスチジンはすでに1896年に発見された塩基性アミノ酸で血液中や筋肉中に含まれるもので、本願出願当時当業者に周知のものである。

(3) 胎盤中に検出し得る「ヒドロキシ」及び「ケト誘導体」としてはりんご酸及びα―ケトグルタール酸があり、これらについては部分溶液Aとして挙げられている。

(4) 胎盤中に検出し得る低分子成分である「水溶性ビタミン」としてはB1、B2、B6、B12、イノシツト、パントテン酸カリウム、葉酸、ニコチン酸アミド及びビタミンCがあり、これらは全部本願明細書に記載されている公知物質である。

(5) 胎盤中に検出し得る低分子成分である「硫黄化合物」は極く少なく、ビタミンB1、ビタミンH、グルタチオン、システイン、シスチン、メチオニン、インジカン、タウリンがこれである。これらの硫黄化合物は全部公知であつて、胎盤中に検出し得る低分子成分である硫黄化合物はこれ以外にない。

(6) 「胎盤中に検出し得る……プリン及びピリミジン誘導体」の中にはヌクレイン酸の成分である5つの塩基が含まれることは公知の事実である。すなわちプリンから誘導されるものとしてはアデニンとグアニンがあり、ピリミジンの塩基骨格に属する塩基としてはウラシル、チミン及びシトシンがあり、この点は当業者においては自明のことである。

(7) 本願発明で用いられる「低分子成分」及び「活性物質」もまた、1つの共通した性質として人体中に検出される物質に限られる。すなわち、人体に中毒作用を起さず、製剤の所望の効力である新陳代謝活性能力を妨害せず、また有害な作用をしない物質である。このような物質を化合物として分類することは当業者にとつて極めて容易なことである。なるほど本願発明の特許請求の範囲にいわゆる「低分子成分」及び「活性物質」は、全部が全部共通性を有する物質ではないが、右の限度では共通した性質を有するのである。

(8) 以上(1)ないし(7)によつて明らかなとおり、審決の指摘する個所における物質又は用語の意味する範囲は明瞭である。

(3) (c)の点(互に重複する関係にあるもの)について

審決は、互に重複する関係にあるものとして、「アミノ酸」と「カルボン酸」を挙げているが、カルボン酸はカルボキシル基をもつ有機化合物であり、アミノ酸は分子内にアミノ基とカルボキシル基とを持つ化合物であるから、両者は明らかに別物質である。本願明細書もこの認識の上に立つて、アミノ酸及びその誘導物として14種のものを挙げ、これとは別にカルボン酸としてコハク酸を掲げているのであつてその意味するところは明確である。

(4) (d)の点(各物質の組合せが不明である)について

審決は、特許請求の範囲の摘示個所における各物質の組合せ関係が不明であるとするが、(1)ないし(3)に述べたところ及び本願明細書の発明の詳細な説明からすれば、特許請求の範囲における「カルボン酸並びにヒドロキシー及びケト誘導体、プリン―及びピリミジン誘導体」は「カルボン酸並びにヒドロキシ誘導体及びケト誘導体、プリン誘導体及びピリミジン誘導体」と、「プリン/ピリミジン塩基及びプリン/ピリミジン誘導体等」は「プリン塩基又はピリミジン塩基、及びプリン誘導体又はピリミジン誘導体等」とそれぞれ読み直すことができることは明らかである。従つて、右摘示個所における各物質の組合せは明確である。

仮に、被告が主張するように、特許請求の範囲における「及び」、「並びに」の語を、例2との関係において「又は」の意味に解すべきであるとすれば、その場合は例2が本願発明に属さない別個の発明であるに過ぎず、例1は依然本願発明の実施例に外ならないのであり、各物質の組合せが不明確であるということはできない。

3 実施例等について

(1) 本願明細書における実施例の記載が審決のいうとおり、操作条件、使用材料、使用量に一定の幅をもたせていることは事実であり、他方、昭和52年6月15日付手続補正書における本願発明の例1により製造された胎盤エキスと2つの公知方法との比較表においては、実験結果を示す数値が確定的一義的に記載されている。しかして明細書に実施例が示されていなくとも、当業者が明細書に記載されたところから容易に実施できるときは、実施例の記載は不要である。また実施例が記載されている場合に、その実施条件に一定の幅があつても、それは、当業者がその範囲内で一定の数値を選択して実施することのできる限界を明らかにしたものにほかならないから、当業者はその範囲で実施できることは当然である。当業者が実施できる以上操作条件、使用材料、使用量に一定の幅があつても少しも差し支えない。

(2) これを本願発明についてみると、特許請求の範囲には、胎盤エキスをpH6.5~7.4に調製することが、また基礎溶液と部分溶液A、B、Cとからなる溶液の量比を1:1~1:5とそれぞれ幅を持たせ記載されている。しかし、発明を具体化するための実施例において、右の幅のある数値のうちの特定の値例えば、pH6.5、量比1:1という特定数値により実験結果を表示する必要はないのであつて、当業者なら右のpH値及び量比の範囲内の適当な値を選択して実施すれば、本願発明を実施できるのである。また、明細書に記載の例1には、特許請求の範囲に記載された成分全部が含まれているのに対し、例2には胎盤中に検出し得る低分子成分としてアミノ酸が、また活性物質としてチミンがそれぞれ挙げられており、明細書の実施例の記載方法としてはこれで十分である。前者は特許請求の範囲に記載されている成分を実質的に全部網羅しているのに対し、例2では、安定化剤としてアミノ酸2種と活性物質1種類が用いられているだけではあるが、いずれの場合も本願発明の構成に含まれるとともに、前者は成分をほとんど最大限に利用した場合の例であり、後者は最少限の使用を例示するものである。両者の中間には、各成分を明細書記載の範囲内で、当業者が必要に応じて任意に選択使用できる領域があることは当然であり、またこれらの全部の場合を実施例に記載する必要のないことも当然である。

(3) 昭和52年6月15日付手続補正書に記載の比較表において本願発明の例1による実験結果を示す数値が確定的一義的に記載されているのは、例1に示された範囲内で操作条件、使用材料、使用量を特定した上で行つた実験の結果によるものである。

なお、被告は右の比較表における「公知方法」は特定されていない旨主張するが、同表のPFEⅡはウイーン市のサナボ社製の水性胎盤エキスのアンプルであり、PFEⅢはリヒター社製胎盤液であるが、これら調剤の化学構造はラベルに一切記載されていなかつたのであり、しかもこれらの製品は、つとに販売中止となり取得が不可能であるため、何人もその正確な構造、内容を知ることができない状況にある。

第3請求の原因に対する被告の答弁と主張

1  請求の原因1ないし3の事実は認める。同4の主張は争う。

2  原告主張の審決取消事由は失当であり、審決には違法の点はない。

1 「貯蔵剤」について

本願明細書に使用される「貯蔵剤」の用語は、例えば、文部省編学術用語集「化学編」、共立出版株式会社発行「化学大辞典」等には収載されておらず、第9改正日本薬局方にも見出せないものであり、学術用語とはいえないところ、本願明細書にはその定義ないし説明もない。原告は、その主張する辞典の記載等により貯蔵剤は、防腐剤又は保存剤と同義である旨主張するが、それだけではその意義が明確であるとはいえない。

仮に、貯蔵剤が一般に用いられる保存剤と同義であるとしても、特許請求の範囲には、「常用の……貯蔵剤」と記載されているにすぎない。そして明細書の発明の詳細な説明の欄には、「有利にはクロレトン」とか「有利に、一部ハバギン―及び(又は)エチルアルコールないしはベンジルアルコールと混合されるクロレトン」といつた記載があるだけで、これだけの説明では、常用の貯蔵剤とはいかなる範囲の物質を意味する用語として用いているのか不明である。

2(1) (a)の点について

(1)  特許請求の範囲において、「プリン/ピリミジン塩基」と「プリン/ピリミジン誘導体」とを特に区別して記載しているが、「塩基」と「誘導体」との差異が明確でない。原告は、特許請求の範囲における「プリン/ピリミジン塩基」と「プリン/ピリミジン誘導体」とは、胎盤中に検出し得るものである点で同じ意味と範囲のものである旨主張するが、特許請求の範囲に、わざわざ「プリン塩基」と「プリン誘導体」とを明確に区別して記載しているところからすれば、右主張とも矛盾しており不明瞭な記載といわざるを得ない。

(2)  また、右の「プリン/ピリミジン塩基」、「プリン/ピリミジン誘導体」における記号「/」は、どのように解すべきであるのか、例えば「又は」の意味であるのか、「及び」の意味であるのかなど不明である。発明の詳細な説明中にも、右記号が同様に用いられているが、これについて言及するところがない。

(2) (b)の点について

一般に、ある化合物に小部分の構造上の変化があつてできる化合物をもとの化合物の誘導体といい、ある化合物の中に硫黄が化学結合して含まれているような化合物を硫黄化合物と理解されるので、これらの用語の意味する範囲は非常に広いものである。この点について、原告は、「……誘導体」及び「硫黄化合物」は、胎盤中に検出しうるものであることを要し、胎盤中に検出できないものを含まないものであるから、その範囲は自ずから限定されるものであり、明確であると主張する。しかしながら、胎盤中に検出しうる低分子成分として掲げられた物質群は、相互に全く共通性の無い化合物群である上に、「誘導体」、「硫黄化合物」といつた概念的かつ包括的な表現を用いて記載されたのでは、依然としてその具体的な化合物がどの様なものであるのか、その全容を推定することは困難である。

(3) (c)の点について

カルボン酸とは、一般にカルボキシル基を有する化合物の総称であり、アミノ酸とは、アミノ基とカルボキシル基の両方を含有する化合物の総称である。してみると、アミノ酸は、カルボキシル基を有している以上、カルボン酸の一種ということができるから、わざわざカルボン酸とアミノ酸を重複して記載した技術的意義が不明である。また、アミノ酸がカルボン酸に属しないというのであれば、カルボン酸とは一体どの様な範囲の化合物を意味する技術用語として用いているのか不明瞭である。

(4) (d)の点について

特許請求の範囲の審決摘示個所に列挙された物質については、「及び」、「並びに」の語や読点「、」、記号「/」等で結ばれており、「低分子成分」及び「活性物質」の全成分を安定化成分として混合すべきなのか又は人体中に検出しうる「低分子成分」及び「活性物質」は、それぞれ任意に選択し、最低一成分ずつを混合すればよいのか甚だ不明確である。明細書中例2に示されたものは、低分子成分及び活性物質としてそれぞれ一成分ずつ、すなわち、低分子成分としてはアミノ酸(グリシンとトリプトフアン)、活性物質としてはチミンの合計2成分が用いられているに過ぎないから、この記載からすれば、低分子成分及び活性物質としては、最低1成分ずつを混合すれば足りるものと解される。そうすると、特許請求の範囲中の前記「及び」、「並びに」の語は「又は」の意味に解すべきことになるが、これは用語の意味に反することとなる。しかも、右のように解すると、その選択枝は極めて多数にのぼるが、そのいずれもが標準化された胎盤エキスの安定化という本願発明の所期の目的と効果を等しく達成されるものとは到底解されない。それにもかかわらず必要最少限の添加成分の組合せを選択するについて準拠すべき基準は見当らない。従つて低分子成分及び活性物質として列挙された各物質の組合せ関係は不明である。

3  実施例等について

本願明細書には、本願発明に関する実施例が示されていない。発明の詳細な説明における例1、例2は、その操作条件、使用材料及び使用量において広範囲の幅を有し、これをもつて、本願発明の構成が実際上どのように具体化されるのであるかを示す実施例ということはできない。

前述のとおり、例1は「低分子成分」及び「活性物質」からなる安定化成分として、特許請求の範囲に列挙されたほとんど全成分を含有しているのに対し、例2は「低分子成分」としてはアミノ酸成分、「活性物質」としてはピリミジン塩基成分であるチミンの2種成分を使用しているに過ぎないので、両実施例の安定化成分の具体的組成には大きな相違が存在する。しかるに、例1における各成分も人体中に検出できるものであるという以外には共通性がないものと解されるので、これらの成分間の任意の組合せについて本願発明の所期の目的、効果が達成できるかどうか、また具体的に生ずる効果上の差異については、全く不明であるといわざるを得ない。

昭和52年6月15日付手続補正書3頁以下に示された「PFEⅠ」も単に「本願の例1による」とされているだけでその操作条件、使用材料、使用量については全く記載がなく、これもまた本願発明を具体化した実施例ということはできない。なお、右補正書の同所に記載された比較表において比較の対象とされている「公知方法」も特定されていない。

第4証拠関係

本件記録中の書証目録の記載を引用する。

理由

1  請求の原因1ないし3の事実は当事者間に争いがない。

2  そこで審決の取消事由について検討する。

1 「貯蔵剤」について

成立に争いのない甲第2号証(本願明細書)によると、本願明細書の発明の詳細な説明中には、「……一定量の貯蔵剤、有利にはクロレトンを添加し……」(5頁8ないし9行)、「……貯蔵剤としてのクロレトンの存在下で……」(13頁12行)の各記載が認められ、また成立に争いのない甲第10号証の1ないし5(「調剤指針注解」薬事日報社発行)によると、クロレトン(クロルブタノール)は調剤の際の防腐剤ないし保存剤として用いられるものであることが広く知られているものと認められ、これらの事実を併せ考えると、本願発明における「貯蔵剤」は、防腐剤ないし保存剤の意味で用いられているものであることが当業者において容易に理解できるものと解される。なるほど、わが国においては「貯蔵剤」の語はなじみの少ないものであり、防腐剤又は保存剤の語が用いられるのが通常であるが、成立に争いのない甲第7号証の1ないし3(標準医語辞典)、甲第8号証の1ないし3(新化学ドイツ語辞典)によれば、Konservierungs-mittelの訳語として貯蔵剤、防腐剤が用いられていることが認められ、また、前掲甲第2号証、成立に争いのない甲第4、第6号証によると、本願明細書(昭和52年6月15日付及び同53年1月17日付手続補正書に基づく補正後のもの、以下同じ)には、本願発明の方法で製造された水溶性胎盤エキスが注射液や軟膏又はクリームへの混入に用いられることが明記されており、防腐ないし保存の対象物が明らかである上、右貯蔵剤の作用が防腐ないし保存以上のものを期待しているものでないことが認められる。

そうすると、本願明細書に記載の「貯蔵剤」についてその意味が不明確であるとした審決の判断は誤つているといわざるを得ない。

2 「胎盤中に検出しうる……ピリミジン誘導体等」の記載について

(1)  まず(a)及び(d)の点について検討する。

(1) 当事者間に争いのない本願発明の特許請求の範囲には、「プリン/ピリミジン塩基」、「プリン/ピリミジン誘導体」との記載があるが、このような記載方式が一般に広く用いられるものではない(このことは原告も明らかに争わないところである。)ため、右の記号「/」が何を意味するのか判然としないところ、前掲甲第2、第4、第6号証によると、本願明細書の発明の詳細な説明中にもこの点については特許請求の範囲に記載されたところと同様の記載があるにとどまり、右の点を明確にできる手がかりとなる記載はないことが認められる。

原告は、特許請求の範囲の前掲各記載は、それぞれ「プリン塩基又はピリミジン塩基」、「プリン誘導体又はピリミジン誘導体」の意味であることは明らかである旨主張する。しかし成立に争いのない甲第30、第31号証によると、プリン塩基とはプリン誘導体のうち生体に関係の深いものをいうとされ、またピリミジン塩基とはピリミジン及びその誘導体をいうとされていることが認められ、従つてプリン塩基とプリン誘導体、ピリミジン誘導体とピリミジン塩基とはそれぞれ一方が他方に包含される関係にあることになる。そうすると、仮に原告の主張するように解しても、右4者の関係は依然として明確でない。

(2) 前記本願発明の特許請求の範囲には、胎盤エキスを標準化した後これを安定化するために、該エキスに、常用の緩衝物質及び前掲の貯蔵剤の他に、「胎盤中に検出しうる低分子成分であるアミノ酸及び同誘導体、カルボン酸並びにヒドロキシー及びケト誘導体、プリン―及びピリミジン誘導体及び尿素、水溶性ビタミン、及び硫黄化合物を含有し、」最後に活性物質を添加した溶液を所定の量比で加うべき旨が記載されている。

そこで、右記載の趣旨について考えるに、右括弧内のアミノ酸以下に列挙された物質のすべてを使用すべきものとする趣旨か、そのうちの一部を任意選択して使用すべきものとする趣旨かが必ずしも明瞭とはいえない。もつとも、右括弧内に列挙された各物質名は、「及び」、「並びに」の語と読点とによつて順次接続されているので、文理上は前者の趣旨であると解されないではない。

しかし、前掲甲第2、第4、第6号証によると、本願明細書の発明の詳細な説明中には右の解釈を裏づける記載はなく、却つて、「標準化された胎盤エキスは引続いて安定化のために適当な溶液と混合される。該溶液は、緩衝物質の他に、胎盤エキス中に含有される低分子成分の多くを一部一層大きい濃度で……含有するものである。」(甲第2号証3頁1行ないし8行)と記載されていることが認められる。右記載中の「低分子成分の多く」とは具体的にどのような成分をいうのか、またこれに続く「一部一層大きい濃度で」とは具体的にどのような濃度(使用量)をいうのかは必ずしも明らかではないが、この記載は、特許請求の範囲の前記括弧内に列挙された物質のすべてではなく、その一部を溶液に添加することを意味していることは明らかである。しかも、前掲各証拠によると、本願明細書には、本願発明の実施例として例1及び例2が記載されているところ、例1には前記特許請求の範囲の括弧内に列挙された物質のすべてを使用した溶液の例が示されているのに対し、例2には右列挙された物質のうちその一部であるアミノ酸(グリシン及びトリプトフアン)のみを使用した溶液の例が示されていることが認められる。従つて、発明の詳細な説明中の前記記載並びに例2の記載からすれば、本願発明は低分子成分として前記特許請求の範囲の括弧内に列挙された物質のすべてを用いなければならないものではないと解されるのである。そうすると、右特許請求の範囲の記載は前記括弧内に列挙された物質のすべてを使用すべき趣旨と解することはできない。

一方、右物質の一部を任意選択して使用すべき趣旨と解することは文理上無理であるので、結局右特許請求の範囲の記載は、本願発明が右物質のすべてを用いることを要件とするのか又はその一部を用いることを要件とするのかが明確でないといわざるを得ない。

原告はこの点について、例2は本願発明に属さない別個の発明に過ぎないから、特許請求の範囲の記載が不明確であるとはいえない旨主張する。しかし前認定のとおり、本願明細書の発明の詳細な説明中には、特許請求の範囲の前記括弧内に列挙された物質の一部のみを溶液に添加することを意味する記載があり、例2はこの記載と符合するものである。しかも、前掲甲第2、第6号証によれば、出願当初の明細書(甲第2号証)には本願発明の実施例として例1から例4までが記載されていたが、昭和53年1月17日付手続補正書(甲第6号証)により例3及び例4は参考例1及び参考例2に改められたことが認められ、右経過に照らせば、本願発明の実施例であることを明記の上示された例2を本願発明とは別個のものであるとする原告の右主張は到底採用できない。

(2)  以上のとおりであるから、審決の指摘する(b)及び(c)の点について検討するまでもなく、本願発明の特許請求の範囲には、不明確な記載部分があり、本願発明の構成に欠くことができない事項が記載されているとはいえない。

3  実施例等について

(1)  前掲甲第2、第4、第6号証によると、本願明細書に本願発明の実施例として示されている例1、例2のうち例1の概要は、細砕した胎盤をエーテル処理し、次いで遠心分離及び濾過を行つて製造した胎盤エキスを、標準化のためにカーボンで濾過し、エーテルで抽出してホルモン及び残余のリポイド物質を除去し、次いでエーテルを完全に除去するなどした後、前掲の貯蔵剤であるクロレトンを添加し、pH値を調整して標準化し、この標準化されたエキスと、基礎溶液と部分溶液A、B、Cとからなる溶液とを1対3又は1対5の比率で混合して安定化するというものであり、右基礎溶液と部分溶液A、B、Cとからなる溶液は、該溶液100l中に部分溶液A50l、同B2.5l、同C15l及び基礎溶液32.5l含むものであり、部分溶液Aは、チミン3~100g、こはく酸10~150g、ビオチン3~100g、システイン5~20g、P―アミノ安息香酸3~30g、りんご酸10~300g、α―ケトグルタール酸40~150g、シチジン―一燐酸塩―ジナトリウム塩0.25~100g、ビタミンC10~150g、食塩1~15kg、グリコース0.1~1kg、塩化カリウム0.5~25g、尿素100~500g、メチルグルカミン10~500gを右基礎溶液50l中に溶解して調製するものであり、部分溶液Bは、ビタミンB110~100mg、B210~125mg、B610~200mg、B120.1~1mg、イノシツト10~150mg、パントテン酸カリウム10~150mg、葉酸15~150mg、ニコチン酸アミド10~250mgを右基礎溶液2.5l中に溶解して調製するものであり、部分溶液Cは、リジンほか22種の物質それぞれ1~100gを、右基礎溶液15lに溶解して調製したものであることが認められる。また、前掲甲第2号証によれば、例2の概要は、例1と同様にして標準化した胎盤エキスに、100l当りグリシン0.6~2.5kg、食塩1.5~5.5kg、トリプトフアン1~15g、クロレトン(前掲)200~800g、エチルアルコール1~3kg、チミン3~25g、塩化マグネシウム5~500g及びpH値6.7~7.1にするに充分な量のくえん酸塩緩衝剤を含む溶液を、1対1ないし1対5の割合で混合して安定化するものであることが認められる。

(2)  そこで、右の標準化された胎盤エキスを安定化するための使用材料についてみるに、例1においては、40種を超える物質が使用されるのに対し、例2においては、8種の物質が使用されるにとどまるところ、本願明細書には両方法に基づいて製造された水溶性胎盤エキスの効果上の異同に関する記載が見当らない。更に、使用物質の使用量についても、例1においてはこれに用いる40種を超えるすべて物質について、また例2においてはグリシンなど7種すべての物質について使用量が著しく広い幅をもつて記載されているところ、これらの物質の使用量をどのように選択した場合に、製造されたエキスの効果においてどのような影響があるのかについて、本願明細書にはその記載が見当らない。

ところで、本願発明において、標準化された胎盤エキスを安定化するために用いられる前記各物質は、胎盤中に検出できる点で共通であるとしても、これらの物質がすべて同一の性質を有するものでないことは明らかであり、しかも前掲甲第2号証によると、本願明細書の発明の詳細な説明の冒頭には、「……水溶性胎盤エキスで治療する場合、なかんずく製造されたエキスの組成の変化にも起因して、著しい効力変動が現われる。」と記載されていることが認められ、これによれば、本願発明における胎盤エキスの安定化工程で用いられる物質の種類をどのように選定するか、またその選定した物質の使用量をいかに定めるかによつて、製造された水溶性胎盤エキスの効果に大きな影響を及ぼすものであることが容易に推認できるところである。しかるに、本願明細書には前述のとおり効果に関する具体的記載がないために、安定化物質及びその使用量の選定をいかにするかによつて製品の奏する効果上の差異を知ることができない。

また、前掲甲第4号証によると、昭和52年6月15日付手続補正書には、例1によつて得られた製品の性質及び効果について、2つの公知方法によつて製造された製品とを比較した結果が10種の項目にわたつて記載されているが、本願発明についてはただ単に「本願の例1による」とのみ記載されているに過ぎず、先に指摘した例1に、その使用量が広範囲な幅をもつて列挙された物質について、それぞれどの値を選定して用いたかについては全く記載がないばかりでなく、これと対比して示された2つの公知方法もいかなる成分組成をもつものであるかについて全く記載がないので、この試験結果に関する記載を基にして本願発明の効果を具体的に認識又は予測することは到底できない。

(3)  そうしてみると、本願明細書の発明の詳細な説明には、その発明の属する技術分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に、その発明の構成及び効果が記載されていないものといわざるを得ない。

原告は、明細書に実施例として、操作条件、使用材料、使用量について一定の幅をもつて記載されていても、その範囲内の適宜の値を選択して実施することが可能であり、本願明細書の記載もその点で欠けるところがない旨主張する。なるほど明細書に発明の実施方法を記載するに当つて、用いられる材料の種類やその使用量を必ずしも常に一義的に限定し又は確定値をもつて示さなければならないものではなく、許容範囲を一定の幅をもつて記載することも可能である。しかし、使用材料や使用量がその許容範囲内であつても選択のいかんによつて効果上差異を生ずる場合においては、その効果上の差異が自明であるか若しくは予測が可能である場合は格別、選択の範囲が極めて広範囲であり効果上の差異を予測できない場合には、この点を明らかにした記載がなければ、選択の指針が得られない。従つて、このような場合当業者が容易に発明を実施できる程度に発明の構成及び効果が記載されているとすることはできず、本願明細書は正にこの場合に該当するので、原告の前記主張は採用することができない。

4  以上のとおりであるから、本願明細書が特許法(昭和60年法律第41号による改正前のもの)36条4項及び5項に規定する要件を満たしていないとした審決の判断は結局正当である。

3  よつて、審決の取消を求める原告の本訴請求は理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担及び上告のための附加期間につき、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、158条2項を適用して、主文のとおり判決する。

(瀧川叡一 松野嘉貞 清野寛甫)

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